笑顔の実り。 vol.102(2022年8月号)
うち もと まさ としさん|70歳
羽曳野市南恵我之荘地区 内本 昌俊さん
農業と向き合い父の偉大さに気づく
農業を始めたきっかけについてお聞かせください。
父が専業農家だったので、子供の時から1年中様々な作物を育てる手伝いをしていました。私が小学校低学年の頃はまだ耕運機がない時代で、牛を使って耕していました。当時は、市場に出荷するのも大変で、父がリヤカーを引っ張り、私と兄で後ろを押して大阪市内や八尾の卸売市場まで持って行っていました。今のように道が整備されているわけでもないので、重たい荷物が載ったリヤカーを押して大和川の土手を登ったり、下ったりと子供の私にとっては重労働でした。また、当時はまだビニールが一般的でなく、水をはじく油紙と竹ひごを使ってトンネル栽培をしていました。冬場は寒いのでござを被せて、朝は開けに行き、学校から帰ってきたら閉めに行く。冬場はトンネルの開け閉めをするのが子供たちの日課でした。勤めてからも父を手伝い、農業との距離を空けることなく、週末農業で続けてくることが出来ましたが、今年の退職を機に本格的に農業に向き合っています。
農業をしていて印象深かった出来事はありますか?
農業をしていると農産物を新鮮なうちに味わうことが出来るのが幸せで、食に対してのありがたみを感じます。子供時代の思い出として冷蔵庫がなかった当時、私は早朝に収穫した夜露のかかって冷えたトマトをかじりながら通学していました。綺麗なトマトは市場出荷していたので規格外のトマトでしたが、その時の父が作ったトマトのジューシーさは今でも鮮明に覚えています。あの時のトマトをもう一度食べてみたいと思い栽培しますが、なかなか上手くいきません。そして、父と同じようにやっても、どうしてもうまく作れないものの一つにダイコンの漬物があります。なんでもない物なのですが、食事をするといつも思い出すもので、ちゃんと聞いておけばよかったと未だに後悔している内本家の味です。
昔、田植の時期には、田んぼの畔へエダマメを植えていました。畔に植えるので「アゼマメ」と呼んでいました。農業も日々変化していて今ではほとんどやられていないやり方ですが、物の少ない時代に少しでも収量を上げるための先人の知恵の一つだったのでしょうね。畔道を遊ばせずに、使えるものは利用する、自分も作業をする上で、改めて考えないといけないと感じました。
農業への想いをお聞かせください。
毎日ご近所の方と話しながら、畔に座って圃場を眺めていた父の姿を覚えています。昔は「毎日何してんのやろ」と思っていましたが、私も畑に毎日行くようになってわき芽が出ていないか、水は足りているかなど、より良い農作物を作るためには、毎日細かい違いに気付いて対処していく必要があると気づかされました。父も自然と共存した農業をやっていたのだと思うと、ようやく父の想いが分かった気がしました。兄弟でも「父さん、こんなんよく一人でやってたんやな」と話すこともあり、あらためて父の偉大さと作物を育てる大変さ、そして収穫の時の喜びを感じています。
これからの目標をお聞かせください。
私の子供が小さい頃、地元の小学校の教育田として圃場を提供していた経験があり、農業には教育や福祉・地域交流といった側面があると気づきました。それからは、農業を通じて地域のために何かできないかと考えるようになりました。まずは知り合いの方に私の育てた農産物を食べて頂くことで経験を積むため、今年はその第一歩として、春はイチゴの畝を増やし、友人の孫たちを招待してイチゴ狩り体験をしてもらいました。とても喜んでもらえて、美味しいと言ってくれたことがとても嬉しく、励みになりました。子どもたちには農に触れることで、心を耕して欲しいと思っています。
また、現在農協の農業塾に参加しています。父の手伝いから学んだことだけでなく、農業の基礎知識を改めて学ぶことで、農産物の品質の向上や、栽培の効率をより上げていきたいです。去年から新たな農作物の栽培にもチャレンジしているので、農業塾で学んだことを活かしていけたらと思っています。