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笑顔の実り。 vol.76(2020年4月号)
あさおか こうじさん|45歳
富田林市西板持町 浅岡 弘二さん

産地を元気に!

農家にはならない

暑い日も、寒い日も、両親が休み無く畑で働くのを見ていたので、浅岡さんは子供の頃から「大きくなったら農家にはならない」と決めていた。農繁期はあまりの忙しさにご飯を作る時間が無く、小学生の浅岡さんが米を炊き、両親におにぎりを作ってあげた事もあるそうだ。 農業とは違う道に進むため、高校は工業高校を選び、卒業後は学校の紹介で自動車関係の仕事に就いた。転機が訪れたのは、就職して5年ほど経った頃だ。急に祖父が病に倒れ、滅多に弱音を吐かない父親が「農業を手伝ってくれ」と頭を下げた。浅岡さんは仕事を辞め、1年の期間限定で農業を手伝うことにした。しかし、気がつけば両親に外堀を埋められ、1年たった頃には農業を辞められない状況になっていた。不満を抱えていた浅岡さんを変えたのは、農業に熱心に取り組む同業者の姿だった。若手農家が集まる4Hクラブに入ると、新しい栽培方法に挑戦する人や、仕事も遊びも全力で楽しむ人など、自由に農業に取り組む人たちがいた。若手農家との交流を通じ、浅岡さんはしだいに農業の魅力にはまっていった。農業に前向きになり、自分で栽培方法を勉強し始めると、父親が昔から実践している栽培方法と、考えが対立するようになった。お互い「どうして分からないんだ」と口喧嘩が増え、35歳の時に父親と経営を分けることにした。「昨年、父親が病気で入院することになり、長年育ててきたエビイモの栽培を辞めると言い出しました。このままでは病気に負けてしまうと思い、父親が留守の間、エビイモの栽培を引き継ぎました」 初めてエビイモを育て、難しさに触れると、父親の凄さが身に染みて分かった。素直に「凄いな」と感心した。10月になり、無事に退院した頃、エビイモが宮中祭祀「大嘗祭」の「庭積の机代物」として供納されることになった。「絶やさず育てて良かった」と、親子2代で喜んだ。

理想のトマトを求めて

自分一人で農業に取り組むようになり、浅岡さんが力を入れ始めたのはトマトの栽培だ。少しずつ改良を重ねたトマトは評判を呼び、5年ほどで一気に売り上げが伸びた。「これはいける」と確信した浅岡さんは、翌年から栽培面積を倍に増やした。しかし、面積を増やしたせいで目が行き届かず、思った通りのトマトが作れなくなってしまった。追い打ちをかけるように、害虫「コナジラミ」が発生し、半分以上が枯れる壊滅的な被害を受けた。「面積を倍にしても、売上は倍にならないことを学びました。今はコナジラミがつきにくい品種のトマトを育てています。味の調整が難しい品種で、思った通りの味に出来るよう、改良の日々です」 トマトの理想の比率は「甘み」7対「酸味」3だと考えている。皮は、口に残ってもあまり気にならない薄さがベストだ。味は与える肥料によって大きく変わるそうだ。浅岡さんは海藻、貝殻、サンゴの粉末など、ミネラルを多く含むものを肥料に使っている。根や葉から養分を与え、タイミングや量で狙い通りの味に近づけていく。「思い通りの味にするのに、大体20日くらいはかかります。もっと短縮して、1週間に出来たら良いんですけどね」

笑顔がモチベーション

トマトの販路が一気に拡大したのは、栽培を露地からハウスに切り替え、年中出荷出来るようになってからだ。シェフ同士の繋がりで口コミが広がり、しだいに注文が来るようになった。今後はトマトの6次産業化にも力を入れ、販路を拡大したいと考えている。 「トマトを使ってカレーを作ると美味しいので、商品化出来ればと思っています。最終的な理想の形は、自分の野菜を使ったレストランを経営すること」  農産物を食べてお客さんが笑顔になる事が、一番のモチベーションだ。

産地を元気にしたい

昨年、浅岡さんは大阪なすの品評会で3年連続 最高位の「近畿農政局長賞」を受賞する快挙を成し遂げた。本人よりも、一緒に働くスタッフや出荷先の飲食店が喜び、祝勝会を開いてくれたそうだ。   西板持町は昔からナス・キュウリの産地だ。しかし、最近では若い担い手の数が減り、産地に危機が迫っている。「作る人がいなくなれば、産地は存続できない。自分も刺激をもらえるので、これからは新規就農者を育てていきたいです。JAと一緒に協力して、産地を元気にしたい」浅岡さんのような担い手とJAが連携し、人を育てたり、農産物をPRすることが出来れば、産地はもっと活気づいていくはずだ。  「JAと農家が協力すれば、色々なことが出来るはず。これからも自分が面白いと思うことに挑戦していきたいです」
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